「富士山と私」小岩井大輔
富士山とはじめて出合ったのは20歳の冬だった。やりたいことや希望もなく、ただその日を過ごし、何をやっても満足できない自分がいた。
そんなとき、写真愛好家だった親父が「富士山へ行こう」と誘ってきた。気分は乗らなかったが、暇だったのでなんとなくついて行った。
真夜中の高速を走り、富士五湖のひとつである精進湖に着いた。車外に出ると、凍てつくような寒さに体がブルブルと震えた。
エンジンも切られてしまい、暖をとることもできない。「こんなクソ寒いところに連れてきやがって……」。
もう帰りたくてしかたがなかった。真っ暗な湖畔で、ひとりタバコを吹かしてふてくされていた。
1時間ぐらいすると、東の空が刻々と明るくなってきた。富士のシルエットが浮かび上がり、赤・橙・黄・紫・青のグラデーションが目に飛び込む。
「世の中にこんな世界があったのか…」はじめて見た自然の作り出す大スペクタルに、一瞬にして心を奪われた。
寒さも忘れ、ただただ自然の織り成す風景に圧倒されていた。湖畔での朝食も喉を通らず、富士の絶景が頭の中を駆け巡った。
「親父、俺も写真やるわ」
一念発起し、当時はまっていたアメリカンバイクを早々に売り払い、はじめて一眼レフカメラを手にした。
それまで使い捨てカメラしか触ったことがなかったが、とにかく週末を利用して、埼玉から富士へと足を運んだ。
写真はとりあえずシャッターを押せば形となるので、自分のような飽きっぽい人間でも挫折することなく、楽しく続けることができた。
試しにコンテストに応募すると、入選することも多々あった。でも、自分の撮った作品と実物の風景は大きくかけ離れていた。
独学で写真の勉強をしては地元(山梨・静岡)の写真家に作品を見ていただき、アドバイスをもらったりした。
そして、風景写真家の竹内敏信先生、神吉猛先生の指導を受け、今までの写真に対する考え方が一変した。
写真とは自己表現であるということを教わった。自然風景は二度と同じものはないし、そのときの年齢や精神状態によっても写真表現は変わると考えた。
自分らしい作品を追い求め、富士と真剣に向き合い、徹夜明けでも毎週末富士の麓で車中生活をして撮影に明け暮れた。
夏ともなれば雨上がりの赤富士を狙い、出勤前の撮影に出掛けた。ますます富士に魅了されていった。
2000年1月、突如、勤めていた会社が倒産した。
予期もしない出来事に頭が真っ白になった。保証人になっていた関係で、一日にして多額の借金を背負った。
どん底の日々が待っていた。家に帰ることもできず、また、周囲にいた人たちも私から去っていった。
写真を撮るのをあきらめかけ、生きる希望も失った。数ヶ月間は自問自答の日々、すべては無常なものだと思い続けた。
世の中は何も変わらない時間が流れているのに、自分だけは大きく変化しているように思えた。
それでも、こんな自分を見捨てずに、助けてくれる心ある方々に支えられ、生かされていることに気づいた。
少しづつでも前に進もうという意思が芽生え、ある日、再び富士山に向き合うことができた。
末広がりの美しい山容に、自分の生きてきた道を重ねてみた。
「自分は今、人生の何合目に立っているのだろう」
富士の頂から麓まで目を配り、裾野の広さを改めて痛感した。自分がとても情けなく思えてきた。
「あのてっぺんにはどんな世界が広がっているのだろう」
富士山そのもののパワーや神髄を感じて写真にとらえたい。そう考えた。
以前から富士には幾度も登っていたが、懐に入り込んで富士山を撮ろうとまでは考えていなかった。
富士山頂に行けば自分自身が変わり、希望の持てる人生がつかめると思った。暗闇の心のなかに一寸の光が見えた。
さっそく、『山と溪谷』1月号の別冊付録、「山の便利帖」に掲載されている頂上の小屋に、上から順番に電話を掛けてみた。
しかし、ことごとく断られた。コネも繋がりも無い自分を雇ってくれる小屋などなかった。
最後の一軒となった「扇屋」に、夢を託して電話をかけた。今までの事情や山頂から写真を撮りたい旨を林守正社長に話をしたところ、快く雇ってくれた。
山頂での生活は想像以上に過酷だった。下界にくらべ、気圧が3分の2程度しかないため、少し歩けば息が切れて心臓がバクバクし、高山病になり頭痛が襲った。
真夏だというのに平均気温は6℃、零下まで冷え込むこともある。台風が接近すると小屋はギシギシと揺れ、一歩外に出れば立っていることもできないほどの強風が吹き荒れた。
雷雲に囲まれたときには髪の毛は逆立ち、額がビリビリ。霰が降り積もり、真夏なのに瞬時に銀世界になることもあった。
山小屋の仕事は、登山客に食事やお土産の販売をし、宿泊のお世話をする。登山道の整備やゴミ拾いも大事な仕事のひとつ。
午前4時ごろから、ご来光を拝むために登頂したお客さんで山小屋の中は満員電車のように大混雑する。
アツアツのとん汁や甘酒など、体を温めてくれるものが人気で、小屋の外にはお土産専用の出店を出し、呼び込みをしては登頂記念のバッジやキーホルダーに日付の刻印をした。
早朝の山頂は縁日のような賑わいをみせるが、ご来光の後は、お鉢周りをする登山者以外はいっせいに下山するため、周囲にはゆったりとした時間が流れる。
夕方になると宿泊者の受付、布団を敷くなどして午後7時ごろ消灯となり、一日が終わる。
撮影はというと、小屋仕事の合間に、社長の好意で撮らせてもらっているのが現状だ。
早朝の忙しい時間にも撮影に出てしまったり、仲間には負担や迷惑を掛けてしまって申しわけなく思いながらも、快く送り出してくれることに感謝の気持ちでいっぱいである。
山頂での撮影はいつも危険と隣り合わせで、山小屋勤務1〜2年目のころは焦りや身勝手な好奇心から痛い思いをしては謙虚な気持ちにさせられた。
夕方、撮影に出かけて夜景撮影を終えたころ、悪天候に見舞われガス(雲)に囲まれてしまい、視界がまったくない。
火口淵で撮影していため、崖から落ちそうになりながらも、手探りでなんとか小屋に戻れた。
低気圧や前線が富士山に接近すると気流が複雑に変化し、山頂では雲の展覧会がはじまる。富士山特有の吊るし雲は、グルグル回りながら成長し、巨大化する。
迫力満点の珍しい雲であるが、そんなときは決まって西からの強風が吹き荒れる。
三脚にしがみつき、カメラを首に掛けて体全体で踏ん張っても、何度も崖下に吹き飛ばされそうになった。
体全体に吹きつける風が汚れた心を洗い流していく。目には見えない富士山の絶大なパワーを感じた。
20歳のとき富士山に出会い、人生そのものが変わった。見たこともない世界に触れて、全身にものすごい電気が走った。
何も知らないど素人がカメラを持ち、林間学校で無理やり登らされて以来、大嫌いだった山登りも始めて、富士山が望める山岳だけを踏破した。
生きることの価値観や自然環境に対する思いが変化し、山は人生の師となった。
6年後にはどん底に落ちて、生きる希望を無くしたが、尊敬する方々に支えられながら、頂上で生活し、富士山そのものの絶大なパワーを心と体で感じた。
さまざまな現象に遭遇して、何もできない小さい自分は「撮らせてもらう」謙虚な気持ちで富士山と向き合えた。
天空で繰り広げられる一瞬を、夢中でシャッターを切っているとき、「今、俺は生きている」と実感できた。
神様が与えてくれた、一度しかないかけがえのない生命を大事に、自分らしく生きたい。オンリーワンの写真家として…。
世界的にも知られ、日本の象徴である富士山は私の生きがいであり、明日への希望である。
今を撮り、今を生きる。